龍言時間

ひと時、立ち止まれる場所が、ここに。

「…あ、傘、忘れた。」
まぶしいくらいの朝日を浴びながら自宅を出て、東京駅から新幹線で約80分、越後湯沢駅のホームに立つと小雪がちらついていた。雪の白さと空気の冷たさが、目と肌に痛いくらいに突き刺さる。
あっという間に雪国に着いていた。
社会に出て約25年間、仕事を通じて全国各地を訪れる機会をいただいた。何回通ったか数えきれない温泉地もあれば、ただ一度だけ訪れた離島もある。多い時は月の半分近くを出張先で過ごすこともあり、多くの場合、常に複数の案件を抱えて緊張感が続く。朝目覚めた時、天井を眺めて一瞬、「…あ、寝坊した! って、ここどこだっけ?」と焦ったことは一度や二度ではない。
コロナウイルス感染症が猛威を振るう直前の2020年春、私の生活は一変し、パソコンとモニターの前から、ネット環境の向こう側にいる学生たちに向かって講義をする日々が始まった。この生活は1年間続いた。以前、よく通った観光地の様子はネット経由の情報で察するしかなく、お取り寄せで届くおいしいものが唯一、地域の温かさを伝えるものだった。友人知人とのリアルな交流も途絶えた。
今回の「雪国」行きは久しぶりの出張で、何か本調子ではない。傘を忘れたのも、きっとそのせいだ。以前であれば、出張先の気候に合わせて持ち物を準備し、コーディネートも完璧だったはずなのに。
新幹線よりもスローなローカル線の車窓から、この地方独特の家屋が見え始める。
私のルーツである富山でもよく目にする、漆喰塗りの妻壁に格子組が印象的な切妻屋根の家々だ。
今回の目的地である、ryugonに入ると、土と草、ストーブの灯油の香りが出迎えてくれた。幼い頃、毎年夏休みのほとんどを過ごした“おじいちゃん・おばあちゃん家”のにおいだ。
「龍言」から、2019年に生まれ変わった「ryugon」にやっと来ることができた。日本の豪雪地帯の風土を感じ、雪国で育まれてきた生活文化を体感でき、決して懐古主義に陥るのではなく、近代的な設えとホスピタリティを堪能できる、稀有なお宿だ。
これまでコロナウイルスに阻まれていたが、やっと来ることができた。だから今回はお宿の隅から隅まで足を運び、できる限り体験して多くを学ぶのだ、そう意気込んでいた。これはもはや職業病といってもよいほどで、しばしばこの“発作”が起こる。
こんな私に、「何かをしようとしないでください。考えないで。」と社長はおっしゃった。
「何もしない、考えない。」とは…立ち止まることだろうか。
これまでの出張では、絶対にしないことだ。なので不安で恐ろしかったが、今回は気持ちの赴くままに過ごすことにした。
小雪が舞う中、Villa Suite の客室に備え付けの露天風呂に浸かる。日本の雪国の温泉地でしか味わえない至極の時間、かなり大袈裟だが、「生きてて良かった」と思うひと時だ。
大浴場から客室へ戻る道のりの長さが、温泉に浸かった幸福感を目減りさせる…と感じるようになったのは、いつからだろうか。それぐらい、客室の露天風呂は、私にとって最上の贅沢。すぐさまキンキンに冷えた缶ビールを喉に流し込み、大きなソファでうつらうつら。いつもなら湯冷めしないようにと、すぐにお布団に入るが、今日は、うたた寝だ。まどろみながら、ぼんやりと来し方行く末を考える。
この日は、1年以上続いた自宅勤務で凝り固まった心と身体が、次第にほぐれて軽くなっていく感覚に包まれて、深い眠りについた。
翌日は案の定、例の“発作”が起こり、お宿の中をあちらこちら探検した。
しかしながら、たった数時間で約1,500坪の広大な敷地に約200年の歴史を蓄えた館と設えが発するパワーを受け留めきれるはずもなく、それに圧倒され消化不良のままryugonを後にした。
何もしなくてもよい。-ryugonは、そのことによって、ひと時、立ち止まり、また歩き出す起点となるお宿だった。
そして同時に、館の中にも外にも、多様な魅力が待ち受けているという。職業病の“発作”を覚悟のうえで、また訪れることになるだろう。
岩崎 比奈子 IWASAKI, Hinako
神奈川県出身。幼少期を香川県で過ごす。(公財)日本交通公社在籍中に、国・自治体からの受託調査研修事業に携わり、特に温泉観光地に多くのご縁をいただく。訪れた土地の味覚を楽しむことに幸せを感じる。特に、豆腐、麺類、お菓子、お酒を好む。2020年4月から、大学教員として国内外の学生たちへ日本の観光の現状と可能性について伝えている。

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